フリーダムスタジオ 50年の記録

1976年12月にオープンしたフリーダムスタジオは、今年50周年を迎えます。

当時を知らない現スタッフの手で、この半世紀の歩みを少しずつひも解いてきました。
関係者への取材を重ねる中で、これまで語られてこなかった事実や背景が、次第に輪郭を持ち始めています。

その一つひとつを辿る中で見えてきたのは、本スタジオが日本のポップス音楽史の中で確かな役割を果たしてきたという事実でした。

この50年の歩みを、いま改めて記録し、次の時代へと手渡していきたい——
その思いから、本連載をスタートいたします。

執筆は、日本の音楽シーンを長く見つめてきた音楽ライター・今津甲氏。

フリーダムスタジオの50年を辿るこの試みを、ぜひご覧ください。

第2章 進化と深化(2026.04.28 UP)

1982年。オープンから6年目のFREEDOM STUDIOに、早くも大変革が訪れました。
まずスタジオ自体の全面改装。その最大の理由は、低域のコントロールでした。

例えば、キックの「ドッ」という量感が、きちんとセンターに定位して聴こえるかどうか。
マルチトラック・レコーディングが一般化し、各楽器の分離が確保できるようになったことで、こうした部分がより重要視されるようになったのかもしれません。

海外のスタジオ事情を探る中で、すでにクリアな低音を実現している例があることが判明します。
それが、アメリカのスタジオ設計者トム・ヒドレーの存在でした。

1960年代。彼が設計したスタジオの音に感銘を受けたジミ・ヘンドリックスの推薦により、レコード・プラント・スタジオの設計・運営に関わることになります。
さらに自らウエストレイク・オーディオとスタジオを設立し、その場所はマイケル・ジャクソンの『スリラー』からジャスティン・ビーバーに至るまで、数々の世界的ヒットを生み出す拠点となりました。

FREEDOM STUDIOのスタッフはアメリカへ彼を訪ね、Aスタジオ・Bスタジオの改装を依頼します。
その設計は、壁面をネットで覆い、その内部空間に音響トラップを配置する「Non-Environment Room」という発想に基づくものでした。

生涯で世界中600以上のスタジオを手がけたトム・ヒドレー。
日本で現存するのは、FREEDOM STUDIOのみです。

無響室のように無機的ではなく、しかし確実にスピーカーの音だけを聴くことができるコンソール・ルーム。
サイズに対して適切に低域がコントロールされたブース。
それらは現在もここに存在しています。


スタジオ改装と同時に導入されたのが、SSLのコンソール「4000E」でした。

それ以前に導入されていたAPIも、フェーダー・オートメーションを世界で初めて開発した優れたものでしたが、SSLはさらに一歩進みます。
「トータル・リコール」という機能により、コンソール上のすべての操作を記録・再現することが可能になったのです。

レコーダーと連動するタイムコードも遅延なく扱え、その操作は卓の中央で完結。
ミックス時に複数人でツマミを分担操作するという光景は、ここで過去のものとなりました。

このコンソールは関係者がイギリスまで出向いて導入したもので、日本では最初期の導入例のひとつとなります。
その後、世界中のスタジオで「SSLがあるかどうか」が基準として問われる時代へと変わっていきました。

現在、Aスタジオには4056G-TR、Bスタジオには4056E、Cスタジオには4056Gが設置されています。


こうした精力的な動きが続く1982年には、もうひとつ大きなトピックがありました。
それが「センター・レコーディング・スクール」の開校です。

スタジオ自らがエンジニア養成学校を設立するという試みでした。

一般的な専門学校とは異なり、カリキュラムは徹底した実習主体。
卒業時には即戦力であることが大前提とされていました。
卒業生が翌年には講師を務めることができた、という逸話がそのレベルの高さを物語っています。

実習には当時最先端であったSSLの操作も含まれており、これは大きなアドバンテージとなりました。
多い時には1クラス10人規模で3クラスが存在し、卒業生は各地のスタジオへと確実に就職していきます。

その結果、「石を投げればセンター・レコーディング・スクールの卒業生に当たる」とまで言われるようになりました。
このネットワークは経営面においても大きな財産となります。

このスクールはその後、27年間にわたって継続しました。

録音環境や機材において時代を先取りするだけでなく、教育機関まで自ら持つという挑戦。
第2章もまた、FREEDOMの名にふさわしいスタートを切ったのでした。

はじまり(2026.04.01 UP)

ゼロから新たなものを作ろう!
初めにあったのはそういう熱量だったと聞いています。

東京都大久保2-16-36。ここに現在の社屋を建てるに際して、うたごえ運動の拠点である音楽センターが専用スタジオを作る、という話もありました。

けれども本格的なレコーディング・スタジオを作り運営していく、というのは高度にプロフェッショナルなスキルが必要です。
だったら独立したレンタル・スタジオを立ち上げるのはどうか?

これまでなかったものを作ってみよう!という高揚感の中で、プロジェクトはスタートしたのです。
創設メンバーの中には、自前でアメリカへスタジオ視察に行く者も現れたりしながら。


1976年12月17日、FREEDOM STUDIOオープン。

それはFREEDOMという名称そのままに、従来のスタジオのスタイルから解放されたものでした。

バンド録音に最適化されたサイズ。
バラエティに富んだ反射吸音を得られる音響設計。
絵画クロスや石積み、多色の照明など、アトリエ的な雰囲気でまとめられた内装。

機材の中心はアンペックスの16trレコーダー・MM-1100とAPIの卓、2824。

そしてこの空間をワンデイでも、ウイークリーでも、マンスリーでも押さえられるシステムを採用したのです。


当時、日本のレコーディング・スタジオと言えばレコード会社所有のものがほとんどでした。

それはオケまで含めて1発録りできる飾り気のない大空間が多く、壁は吸音中心。
そこでは様々なジャンルのアーティストが、厳密なタイム・スケジュールの中で録音していました。

そのことを考えると、FREEDOM STUDIOがいかに新たな場所であったかがよく分かります。


そして時代は、この新しさを求めていたのです。

70年代に入って大きな潮流となりつつあったシンガー・ソングライター、自作自演のアーティストたち。
彼らの録音現場は標準的なバンド編成が多く、お互いに音を出しながら時間をかけて楽曲を固めていく形が増えつつあったからです。


エンジニア、技術、営業の努力に支えられたスタジオはまず、ゴダイゴとの間で化学反応を起こしました。

TVドラマ『西遊記』関連の制作では、スタッフは時にスタジオに寝泊まりしつつ、劇伴からリリース物までを並行してレコーディング。
そこから「ガンダーラ」と「モンキーマジック」、さらには「ビューティフル・ネーム」と社会現象的なヒットが続いたのです。


これが78年10月から翌年1月にかけての、スタジオ・オープンからちょうど2年目前後のこと。
レコーダーが16trから24trになったのもこの頃のことでした。


この場所の特性を活かし切ったアーティストの中にはオフコースもいました。

いい音楽を作るためには時間をかける、という東芝エキスプレス・レーベルの方針のもと、彼らは納得いくまで作品に向かいました。

持ち味であるコーラスのダビングでは多トラックのレコーダーが活躍しました。
パンチインなどではスタジオ・エンジニアの高い技術力も寄与しつつ。

そして79年末のシングル「さよなら」を契機に、80年の『We are』以降、アルバムを出すたびにNo.1を記録するようになったのです。


同様に、同レーベルの録音部長がFREEDOM STUDIOの音の良さを確認した上で自らレコーディングした、アリスの『Ⅵ』『Ⅶ』『Ⅷ』といったアルバムも連続してトップを獲るようになりました。

一方で、デビュー前のYMOの3人のレコーディングを目撃した、という話もあります。
スタジオが所属事務所から近かったということで、デビュー前の松田聖子がデモ録りをしに来たこともあったそうです。

徐々に徐々に、ジャンルを超えたハブのように音楽業界に浸透していったスタジオ。


そして81年4月、この場所で作られた寺尾聰のアルバム『Reflections』が発表となりました。

LPレコードとして、今日まで破られることのない売上枚数記録を持つことになる同作品。

オープン以来5年足らずで、FREEDOM STUDIOは空前のヒット・ファクトリーとなったのです。

(次回に続く)